AFT2020

ブレードランナー

この映画は自分が生まれた1982年に公開された
実際この映画を知るのは25歳くらいの頃、原作の「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」という小説を読んでから。
小説も好きだったが映画の表現に惚れ込んだ。
映画の舞台は2019年の地球。
近未来というとクリーンな未来都市というイメージを先入観的に思い込んでいたが、リドリースコットは違った。環境汚染にまみれた酸性雨の降りしきる退廃的近未来都市像として描いた。
劇中の街の構成やシドミードの工業デザイン、そのどれもが現実的ながら斬新で、何度も映画を見返した。
登場人物にレプリカントと呼ばれる人造人間がいて、外見は人間と変わらす、遺伝子工学によって生み出されたレプリカントは人工的に記憶を植え付けられ、次第に感情を持つようになる。
しかし、人間への反逆などを防ぐため、彼らの寿命は4年に限定され、それを延長することは製造主にも出来ない。また、いつ寿命が切れるのか、誰にも分からない。
だがそれは、感情を持つレプリカントにとっては、残酷な運命に他ならない。人間が死を恐れるように、レプリカントも死を恐れ、自分が何もので、どこから来たのかを知りたいと願う。にもかかわらず、「レプリカントである」というだけで、逆らえば抹殺される。
もし、心をもつもの=人間=生命体と定義するならば、レプリカントも人間として生きる権利を有するはずなのに、人間社会とは区別される。では、「心」とは何なのか? レプリカントの愛情や崇高さと人間の間に、一体どんな違いがあるというのか?
それを考え始めると、私たちは終いには自分の存在を疑わずにいられなくなる。人間を『人間たらしめる』もの、それは何かと問われたら、私たちだって自信を持ってそれを提示することは出来ないからだ。
劇中にはレプリカントの反逆者が登場し、捜査官をぎりぎりまで追い詰めるが、最後にとった行動、それは殺戮ではなく救済だった。
ならば、人間の慈悲はどこにあるのか?
そして、私たち人間は、それ以外のものを裁くまでに完成された存在なのであろうか?
レプリカントの死は「一個の機械の停止」に過ぎないが、そこから広がる哲学の迷宮は私たちの生命に直結している。
たとえ永遠に正解のない問いかけであっても、そこに近づくことが、自分自身を知ることだからだ。
自らを知ることは命を愛することであり、死に対する恐れがいっそうそれを深くする。
人間を『人間たらしめるもの』──もしかしたら、それは、限りない生への希求なのかもしれない。
個人的に近未来のヤンキー像はこの映画が意識的に根強く、そして色濃くそれを示唆しているように思う。